河毛俊作監督 書き下ろしエッセイ「今さら止められない」文・河毛俊作(演出家)


は1952年に生まれた。この9月で68歳になる。最近、随分と長く生きてきたような気がする。私が子供の頃、時代のヒーローだった石原裕次郎は52歳で亡くなってしまったのだから……。私が小さい頃、家にあった通信機器はダイヤル式のズングリした黒い電話機が一台だけ。お豆腐を買いに行く時はお鍋を持って行った。そんな暮らしだったが、大人たちはもう空襲の心配をしないで良いというだけで幸せそうだった。街はゴミだらけでコールタールの匂いが充満し、排気ガスや工場の煙で景色は煤けていた。けれども、まだ東京湾ではアサリやハマグリが沢山、採れて江戸前の海は辛うじて生きていた。鮨も天婦羅も鰻も地産地消で何とかなっていた最後の時代だ。

その後、東京湾はすっかり埋め立てられ、消滅してウォータ―フロントになった。誰もが時代の流れは止められない。豊かになるのだから仕方がないと思っていた。歳のせいか最近、子供時代の東京の風景を夢に見る。コロナ禍で、家で過ごす時間が今までになく長くなった。生活のリズムが狂って睡眠に悪い影響が出るのはないかと心配したが、マニフレックスのマットレスのおかげか、快適に眠れている。そして、昔の東京の風景の夢を見る。

それにしても、新型コロナウイルスの世界的流行という災厄で人類は大打撃を受けた。先が全く見通せない状況の中で私たちは、最新のテクノロジーに支えられた"豊かな社会"が実は脆弱なものであったことを思い知らされ途方に暮れている。誰かがツイッターで「コロナは世界中でクサイモノのフタを開けて回っている」と呟いていた。私もその考えに同意する。私たちが経済や利便性と引き換えに見て見ぬフリをしてきた不都合な真実が顕在化したのだ。人間の経済活動がパンデミックによってストップしたことによって、地球環境は劇的に改善した。温室効果ガスの排出量は16億トン減少見込みで、ベネチアの海はエメラルド色を取り戻した。皮肉なことにコロナウイルスは人間が大人しくしていれば地球はキレイになることをアッサリと証明してしまった。人類のひとりとしては実にきまずい……。人類はコロナウイルスに問いかけられた。"君たちの生き方は本当に正しいのかね?"と……。

そもそも、エイズ・エボラ出血熱など私たちを悩ませる恐ろしいウイルスたちは、環境破壊によって続々と出現し、人類に狙いを定めるようになったのだ。私は石油をジャブジャブ使って豊かになった世代に属する者なので偉そうなことは言えないが、今回のパンデミックは私たちが享受してきた便利で豊かな生活を見直させなければならない最後の機会なのではないかと思うようになった。

冷静に考えてみよう。私たちは今、本当に豊かに暮らしているのだろうか?著しいテクノロジーの発達で、喧伝されてきたように、人々の仕事は楽になり、収入は増えてゆったりと暮らせるようになったのだろうか?その街の歴史をすべてすり潰すような再開発で街は美しくなったのだろうか?

私個人の見解では何れも疑わしい。例えば、私たちを取り巻く"食"の環境を見てみよう。東京の街には飲食店が溢れているが、実は真の意味での多様性は失われている。その理由はラーメンからイタリアン、和食、どんなジャンルでも殆どの店が大企業が資本に物を言わせてコントロールするチェーン店になってしまったからだ。当然、コスト重視でフードマイレージの高い食材が使われ環境負荷は大きいだろう。その煽りで受けて個人の料理人が客に旨いモノを食べてもらいたい一心で工夫を重ねて来た小さな名店は生息域を奪われて消滅する。行政も手を貸さない。会議室でマーケティングに基づいて企画され、工場で作られた均質で化学的でどこか麻薬的な味が人々の舌を支配して行く。これは由々しき問題だ。"洗脳"ならぬ"洗舌"である。多少、陰謀論めくが、グローバル資本主義にとっては庶民の舌が劣化して誰も均一な味で満足してくれる方が都合が良いに決まっている。10年以上前に、味覚の変化について書かれた新聞記事の中の、コンビニのお弁当に慣れた若い人は、熱々で揚げたての春巻きよりも油が回ってベトベト柔らかくなってしまった春巻きの方が美味しく感じるという一節に驚愕したが、今はもっとスゴイことが人々の舌に起きているのだろう。かつて豊かな庶民の味を誇った東京の食は、マネーというコンクリートを流し込まれて埋め立てられた。豊かだった江戸前の海と同じように……、食の問題は一例に過ぎない、私たちが享受していた"豊かさ"は幻想だったのではないだろうかと最近、深く思うようになった。

増え続ける海洋プラスチックゴミで海に生きる命を痛めつける社会が真の意味で"豊かな社会"である筈がない。私たちも自分たちの生活を見直して、「今さら止められない」という思考を改めなければならないのは明白だ。

マニフレックスはずっと以前から環境意識の高い企業で、最終処分に行き詰まっているプラスチックや、リサイクルの困難な金属製のスプリングを使用していない。「今さら止められない」という思考を持たないのがマニフレックスだ。そういうマニフレックスだから私に質の高い睡眠を約束してくれる。さて、今夜はどんな夢を見るのだろうか?

文・河毛俊作
写真・フラグスポート

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